Business Mind

もっと話したかった…。 上田昭夫氏 訃報を聞いて。。。

 

今朝、、、ここ最近、

過去最悪の目覚めをしながらパソコンを立ち上げて驚いた。。。

 

ほぼ死にかけている、慶應ラグビー部同期のメーリングリストから1通のメールが。

 

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残念なニュースです。

上田さんが今朝ご逝去されたそうです。

病名は血液のガン(白血病?)だったようです。

取り急ぎ。

S

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嘘だろう、、、、????

風の噂で体調が悪いとは聞いていたが、まだ60歳超えたばかりだし、、

そのタイミングで、テレビからもほぼ同時に同じニュースが流れていた。

 

「本当なんだ、、、」

 

・・・・・
・・・・・
・・・・・

 

「何をやっているんだ、、俺は。。。」

 

自然と涙が止まらなかった。

実はその涙の理由は、酷い話、彼の死のショックだけではなかった。

 

昨日深夜2時30分くらい、酔っ払いながら、井上泰輔に電話していた。

 

三浦
「もしもし。あっ 泰輔、寝てた?」

 

泰輔
「いいえ、大丈夫です。

どうしました?

こんな時間に珍しいっすね。

なんかありました?」

(素敵な彼は、寝起きの声に気付かれないように必死に振舞っていた。

すまん。泰輔……)

 

三浦
「もう、死にてえよ

俺はいつになったら過去の呪縛から解き放たれるんだ?」

 

泰輔
「どうしたんですか?」

 

以下、あまりにもグロいので省略。

 

どんなに頑張っても、

どんなに走り抜けても、

あの過去絡みの事件は無くならない。。。

 

もう、全てが嫌で、ついつい泰輔に愚痴ってしまった。

ありがとうね、付き合ってくれて。

 

そんな弱気な、しょぼい僕に、今日のこの訃報は最後の最後、上田さんからのメッセージのような気がしたんだ。

 

「しっかり、前向きに生きろ」って。

 

タイミングが僕にとっては異常に運命を感じざる得ない。

こういう事象に触れて沸き起こる感情は「認識」の違いでいかようにも変わる。

 

「あの人も死んだんだ、、、

俺も楽になりたい……」

 

と思う人もいれば、

 

「生きたくても生きれない人がいる。

なに、簡単に『死のう』なんて言っているんだ、、」

 

僕は、まだギリギリ後者でいれることを知った。

 

うん。

頑張るよ。頑張る。

上田さん、、

俺の復活劇はまだまだ始まったばっか。

遠い天国で見てて。

そして、また変な方向に言ったら、指導してください。

その小柄な体格を上から目線で睨んでやるからさ! 笑

 

彼の指導はラグビー部時代よりも、社会人になって理解出来ることの方が多いように思う。

 

僕が、彼のことを「すげえ」と思うことを、今日は3エピソード書いて、彼への弔いとさせて頂けましたら幸いです。

 

これを、情報発信者としてやれることに誇りを感じる。

彼のことを知らない皆様に上田昭夫という、

 

ラグビーをこよなく愛し、慶應をこよなく愛した一人の男のことを知ってもらえるから。

 

それでは参ります。

 

▼ 改革者としての上田昭夫

 

1985年、慶應大学ラグビー部を日本一に導いた彼は、監督業を1回、引退している。

慶應ラグビー部は、公式ジャージが黒と黄色だから「タイガー軍団」という愛称がある。

実は、この年に阪神タイガースも優勝している。

(掛布・バース・岡田の黄金世代)

 

で、面白いことに、阪神も慶應もこの優勝以降低迷を辿る……

阪神の低迷の理由は分からないが、慶應の低迷の理由は明快。

 

「人材不足」

 

というのも、当時の慶應の美学は、内部生と純粋入学者だけで戦うスタイル。

つまり、スポーツ推薦を取らないスタイルだった。

 

慶應高校からの内部生(僕みたいな人)と、

「憧れの慶應でラグビーをやりたい!」

と強く思う人が、一生懸命勉強して、受験して、、みたいな。

当時は一浪・二浪はざらだった。

 

で、ライバルの早稲田や明治は積極的にスポーツ推薦を導入。

その差は、最初はほんの少しだったが、気付いたらもう手の届かないところまで広がっていた。

 

中学生の頃、初めて仲間と大学の先輩の試合:1年に1度の早慶戦を観に、ラグビーの聖地:秩父宮に行ったとき、衝撃を受けた。

確か、0対80くらいで大負け。。

 

「こんなところで、

俺はラグビーを続けるのか?

よえーーーー!!」

 

それでも、よしとするファン・OBは多かった。

 

「勝敗なんて関係ない。

文武両道、それこそ慶應の美学!」

 

・・・はい、負け犬の遠吠え。

 

誰もが限界を感じていた

 

「スポーツ推薦をしなきゃ戦えない…」

 

でも、その領域をある意味伝統校である慶應ラグビー部としては、踏み込んではいけない領域。

 

引退したOBは、

「練習量が足りない!死ぬ気でやれ!!」

気付いたら、大学1、練習がキツイ部への変貌を遂げる。。

あまりにも過酷な合宿の脱走事件は、面白おかしく、FRIDAYに取り上げられた……

多分、皆様の想像を絶する。

 

このまま弱い慶應でいいのか?

そこに立ち上がったのが上田昭夫。

古い伝統をぶっ壊す。

 

その時、慶應に新しく湘南藤沢キャンパス校ができて、AO入試が採用されていた。

※Wikipedia AO入試参照

1990年慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパス(SFC2学部)が、他に先駆けて導入した。

学科試験の結果で合否が決まる一般入試とは異なり、内申書、活動報告書、学習計画書、志望理由書、面接、小論文などにより出願者の個性や適性に対して多面的な評価を行い合格者を選抜する。

 

建前ではこう言っているが、ぶっちゃけ本音で言わせてもらうと、ラグビーや野球・音楽などの一芸に秀でている人のみ、普通の試験よりも入りやすい試験スタイルだということ。

ここまで、ぶっちゃける人はいないが、まあ事実そうだ。

 

そこに目を付けた上田昭夫は、花園出身者(野球でいう甲子園)で、比較的偏差値が高い学校で成績がいい人に直筆の手紙を送りまくる。

 

「君の力が必要だ」

「君の力で慶應ラグビー部を変えてもらいたい」

「確かに、早稲田や明治に入るよりは難しいテストになる。

だけど、精一杯(面接・試験対策を)フォローする」

 

もともと早稲田や明治に行こうと考えていた選手の心を動かす。

今日の朝メールを送ってくれたSもその一人だ。

茨城の花園常連校茗溪学園出身のNZ留学経験者。

そして僕の代のキャプテンKは、国学院久我山高校出身の、内申点5点満点中5点の秀才。

彼らももともとは、明治や早稲田に行くことを考えていた。

 

そうやって徐々に、内部生以外の優秀な人材が集まり始める。

それでも、他の学校に比べたら圧倒的に少ないし、狭き門ではあったが、狭き門とはいえ、なかったところをこじ開けたのが上田昭夫だ。

 

僕のやっていたポジションは比較的身長が高い人が有利なポジション。

多分、このAO制度がなかったら、僕は4年間レギュラーにい続けたでしょう。

だけど、1個下の代に190cmクラスの花園出身者2名が入って、その道は閉ざされた。

・・・ま、僕の努力不足も多いけどね。

 

でも、結果、僕らの代はベスト4。

そして1個下の代は、1985年以降低迷を繰り返した慶應が優勝を再度飾る。

 

当然、監督は上田昭夫だ。

本当に僕はレギュラーでい続けるよりも色んなことを学んだ。

 

・・・だけど優勝しても、結果を出しても、上田昭夫を非難する声は後を絶たない。

 

「こんなんでいいのか?

これが慶應ラグビー部か!!」

 

結果を出しても、また彼は黒黄会(慶應ラグビー部OB集団)から追放される。

それ以降、また慶應は優勝をしていない。

 

ラグビーを日本に初めて導入した慶應大学。伝統校のルールは僕の想像を超えるほど深いし複雑。

そんな中、絶えず孤軍奮闘していた上田昭夫は凄かったと思う。

この「改革者ISM」は特に博報堂という大きな組織で戦った僕に勇気を与えてくれた。

 

▼ 名前を必ず覚える

 

先ほども話したことで分かると思うが、慶應ラグビー部はこういうメンバーで構成されている。

 

・内部生

・一般受験者

・AO入試

 

勘が鋭い方なら分かると思うが、この中で一番肩身が狭いのが「一般受験者」。

 

■ 内部生

⇒ 既に友達多数。先輩とも仲がいい。

 

■ AO入試

⇒ 花園で活躍しているので同期も先輩も注目の的。ぶっちゃけ、優遇される。

 

知り合いもいない、、最初、一般受験者はマジで肩身が狭い。

そんな中、上田昭夫の凄いところは、この一般受験者を優遇することだ。

 

「おい、◯◯。

こいつが埼玉の熊谷高校から来た藤井だ。

仲良くしろ。」

 

同期の中でも比較的目立つ内部生にそうやって斡旋する。

何よりも、内部生でもない、AOでも無いのに、

「憧れの上田監督に、名前を知ってもらえていた…」

そこに皆、感動する。

 

僕はこのエピソードが大好きだ。

だから会社時代もとにかく名刺に少しでも名前を覚えることを書いていた。

 

「ハリアー、ラジオ、ナレーター、」

「本生、PRイベント、ライター」

みたいに。

 

1度会って、名前を1回で覚える人は大成するとよく聞くが、まさにそれを肌で感じるエピソードだ。

 

とにかく、上田昭夫は人の名前を覚えることに関して、最新の注意を払っていた。

 

▼ 実力主義+受け入れる姿勢

 

僕も何度もぶん殴りそうになったし、やはり黒黄会だけでなく、彼は敵が多い。

好き嫌いが多い指導者の中で比較的、彼は「実力主義」であったが、それでも好き嫌いで選ぶ時もそりゃああった。

 

ラグビー通には溜まらない、ジュニア選手権という大会がある。

それは、公式戦3試合以上出た人は出れない大会。

1.5軍2軍戦とも言われている。

レギュラーを狙う人は、まずはこの大会に出ることを目標とする。

ただの学校と学校の戦いじゃなく、その試合の活躍次第では華の「レギュラーの座」が見えるから、出る選手はそれこそ、死ぬ気でやる。

 

だから、ファンは溜まらない。

 

3年の時に選ばれた僕は皆の前で上田昭夫からこう言われる。

 

「三浦、おまえ、キャプテンやれ」

 

えっ?? 4年生、たくさんいるんですが……

当時の僕は勢いがあったし、こういうキャラだから人望もあったという判断だろう。

 

でも、驚いた……

学年、、関係無いんだ…って。。

 

そういう一面がある反面、

 

「なんであの人試合出れないんだろう?

上田さんもいい加減大人になれよ。。。」

 

そういう好き嫌いも、そりゃあ人間だからあった。

だけど、途中から気付いた。

 

「嫌われている方も問題=原因がある」と。

 

実力があっても嫌われて採用されない人は、ほぼ100%いじける。

僕らの用語の中では「腐る」という表現を用いていた。

「あいつも腐ったな〜」とか

「腐っている場合じゃねえだろう!」みたいな。

 

だけど、勇気を振り絞って、その「腐った状態」から抜け出す努力をする人間を、なんと上田昭夫は拾い上げる。

どんなに嫌いでも。

 

僕が2年の時の4年に一人天才肌の人がいた。

だけど、DFだけは苦手で、、

(サッカーで言うと前園とかかな?)

 

凄く華やかなプレイをするのが得意で、泥臭いことをなんとなく避けるタイプだった。

そんな彼と上田昭夫はとにかく馬が合わなかった。

 

お互い一切話もしない。

すれ違ってもシカト状態。

 

上田昭夫だけでなく、彼も意地になって腐り続けていた。

 

「もったいない、、、」

 

皆思っていたが、どうしようもない。

それが4年間続いていた。。。

 

だけど、どんな彼の心の変化なのかは分からなかったけど、卒業が見えてきて、思い残すことがあったのだろうか?

徐々に変化が見られ始めていた、、、

 

そして、ある2軍の試合で、彼はデカイ相手に泥臭いプレイをした……

 

それを上田昭夫は見逃さなかった。

 

卒業間近であったが、最期の公式戦に彼はレギュラーに返り咲く。

 

4年間の確執が終わった瞬間だった。

 

試合後、、

彼と上田昭夫が泣きながら抱き合っている姿は涙無くして見れなかった。。。

 

以上3つのエピソードになります。

 

もっともっとある。

彼から学んだことは。

組織運営、人を動かすこと、などなど。

 

古き良き伝統を破壊し、すべての人に平等であるべく、

 

何よりもラグビーを、慶應を愛し続けていたように。

 

特に、慶應でラグビーをやっていた僕らのような人達を。

 

亡くなった後に、こうやってしか彼のことを伝えられない僕は、まだまだ未熟だ。

だけど、何もしないよりは100倍いい。

 

死ぬ直前まで頑張っていた姿勢は胸を打つ。。。

 

 

上田さん、、、

もっと話したかった。

早いよ、、、、

まじで会いに行けばよかった……

 

・・・・・

 

博報堂独立しても頑張っている姿を認めてもらいたかった。。

 

きっと上田さん以外にも、僕の中で大事な人はたくさんいる。

 

1日を無駄にしちゃいけない。

 

ご冥福をお祈り申し上げます。

 

そして、あなたの1生徒として、恥ずかしくない人生を送ります。

少しお休みになっていてください。

 

遠い天国から、

三浦孝偉復活人生劇場でも見ながら、、、

 

 

 

 

ABOUT ME
Koi Miura
時間にもお金にも縛られず「自由」に生きる。そして「クリエイティブ」に生きる。リアルビジネス・インターネットビジネスの垣根を超えて、あらゆることを提案し、形にして行く。それがこれからの僕の使命。マーケティングスキル・個人ブランディングを極め、自己の成長はもちろん、たくさんの同志と共鳴し合い、成功者を量産させて行こうと思います。